えりひー小話その1

 ※この小話には直接的ではありませんが、R18な行為を仄めかす描写が含まれています。苦手な方、自分にはまだ早いと思われた方はブラウザバック!

 時系列は7話後くらい?

 去年の春頃に書いたものです。先日友人様にお見せしたらお褒めの言葉をいただいたので公開することにしました。ひたすら仄暗ビターなえりひー(エリアス×ヒイラ)が見たいという方にどうぞ。最初はけしからんえりひーが見たくて書いていたのですが途中からこのカップリングの関係性の本質的なところに突っ込んだようなお話になりました。


『そんな、の、私は……望ん、で……おりま、せん……!』

 こちらを酷く睨む金の瞳と、精一杯の抗いを訴える声音。それを無視する自分と、彼女の細い首にかけた右手に力を入れる感触。何故だかふとした一瞬にそれらが脳裏を過る。この姿では大きすぎてもはや寝台と化している玉座に寝ころびながら、何とはなしに自身の手を見つめ溜息をついたところで扉が開く音がした。

「失礼します」

 ただ向こう側に行くためにここに来ただけだろうが、主の姿を認めると恭しく彼女は頭を下げた。

 あの日以来、彼女が自分を見るたびに僅かに怯えるような眼差しを向けるようになった──なんてことは特になく、何事もなかったかのように過ごしている。むしろこちらが彼女の意志を認めたことでどちらかと言えば満足そうにしているようにも見える。

「お前は……俺が怖くないのか」

 別に聞かせるつもりはなかったが彼女は聞いていたようだ。「エリアス様?」と小さく呟き、立ち止まる。

「今更何を仰いますか。貴方様のやり方を一番分かっているのは私です」

「……とはいえ、自分を眠らせかけた奴に『そういうものだ』って割り切れるのか? 普通なら避けるなり怯えるなりするものだろう」

「そうでしょうか。そうした方がよいならばそのように振る舞いますが」

 正直、その方がいくらか楽になれる気もしないでもないのだ。責め立てられないことは自分の行為が正しかったと言われているようで居心地が悪い。いや、確かに彼女を救うという目的のためにあの手段を用いたのであって理由なくあの暴挙に出たわけではないのだが、それでも──と誰に言うわけでもないのに頭の中で弁解を並べてしまう。

「いや、別にいい。……こんなにも長い付き合いなのに、たまにお前がよく分からなくなるよ」

「私の浅はかな考えなど貴方様は全て見通していらっしゃることでしょう」

「そうでもないからこんなこと言ってるんだ」

 虚空を見ながら彼は答えた。そしてふと、何か思いついたように口を開いた。

「こっち来い、ヒイラ」

「承知いたしました」

 すたすたと彼女は玉座の方へ近づき、立ち止まって跪いた。

「そこじゃなくてここだ」

 彼が今いるのは階段の上にある玉座、彼女が足を止めたのはその階段の手前だった。もっと近づけと言われた彼女は主の顔を仰ぎながら僅かに困惑の色を浮かべる。

「そちらは神聖な場所です。貴方様以外が立ち入るべきでは──」

「俺がいいって言ってるんだから来い」

「……はい」

 やや不服そうに彼女は階段を上ってきた。最後の一段に足をかけた時、その仏頂面が一瞬だけ崩れ苦悶の表情を浮かべたのを彼は見逃さなかった。

「……俺の血のせいか」

「ご心配には及びません。この程度の痛み、何も問題はありません」

 もう何度目かも分からない強がり。罪悪感に駆られる一方で、まだ強がれる余裕はあることに安堵する自分もいた。

 彼女は押し黙って主の命令を待っている。主は無言で彼女の手を取り、自分の方へと引っ張った。そのまま自身の隣に座らせる。が、すぐに彼女は立ち上がろうとした。それをなんとか押しとどめる。そうすると彼女は何か訴える目でこちらを見上げた。

「私など貴方様の玉座に座る資格はありません」

「俺がいいって言ってるんだからいいんだって」

「ですが」

「たまには近くでお前が見たい。あんな状況じゃなくて、普通に」

「……」

 抵抗しても無駄だと思ったのか主の言葉が効いたのかは定かではないが、彼女は大人しく縮こまるように俯いた。

 束ねた真っすぐな銀の髪も、動じない静かな金の瞳も、永遠に眺めていられそうだ。ほんの手すさびに頭を撫でつつ髪をほどいてやると、くすぐったいのか嬉しいのかよく分からない表情でこちらを見た。抵抗もせず、理由も聞かない。ただ黙って主の好きなようにさせている。もとより彼女はそういう存在だ。隷として、主のやることに逆らうことはしない。だからあの時──あれほど抵抗されたことに少々驚いたというのも嘘ではない。彼女にそうさせるほどの執念を抱かせる存在のことを考えて、すぐにやめる。今は彼女を眺めていたかった。

 相変わらず何とも言えない表情をしてこちらに身を委ねている彼女を見てどこか後ろ暗い感情が立ち込める。きっと彼女は眠らされる以外なら何をされても受け入れるのだろう。完璧に理解できていないのではという不安故に僅かに満たされない彼女への支配欲を満たすためにどんなに手酷いことをしたって、きっと何も言わず──それどころか微笑んで自分を許すのだろう。無意識に手は彼女の顎を捉えていた。微かな身じろぎをするが、それだけ。なんと無防備な、と意識の片隅で思いながらもゆっくり顔を近づけて静かに口づけた。

──刹那の後、我に返りすぐさま彼女から離れる。こんなことをしたところで彼女の何が分かるというのか。何をしてもいいことに彼女に触れようなどと立派な主のなすべきことではない。自分がやったことなのにいたたまれなくなり「すまない」と告げる。だが恐らく、彼女は何とも思っていないのだろう。きっと謝られた理由さえ理解していないだろう──思いながら彼女を見た。頬を染めきょとんとしてこちらを見つめる彼女と視線が交わる。

「……言いたいことがあるなら言ってくれ」

 顔を背けてぶっきらぼうにそう伝えると、しばらく返事はなかった。永遠に続くかとも思えた沈黙を破り彼女が言うには。

「……珍しいことをなさるのですね。私など、愛するに値するものではないでしょうに」

「嫌とか、そういう気持ちは?」

「ありません」

「……それはお前が俺の隷だからか?」

「そうかもしれません。すみません、このような気持ちを抱くのは初めてのためどうすればよいのか……」

 狼狽えて視線を逸らすその様が訳もなく可愛らしい。駄目だと制止する自分と、だが嫌とは言われなかっただろう、と唆す自分。再び彼女を抱き寄せるも、すんでのところで前者が勝った。腕の中に収まる彼女の温もりを感じながらぼんやりと言う。

「たまに思うんだよ。俺たちが人間になって、片田舎にでも呑気に暮らすことになったらどんな感じなんだろうかってさ」

「……想像できかねます。人間などという脆いものに貴方様がなるなどこれ以上ない不名誉ではありませんか。それに……、いえ、何でもありません」

「言ってみろよ」

「身の程を過ぎたことを思ってしまっただけです」

「俺はそれが聞きたいんだ」

 ほぼ命令と同義の言葉に、渋々彼女は口を開く。ごくごく小さな声だった。

「儚い寿命しか与えられない上に、その後貴方様と再び巡り会えるかも分からないのは嫌です」

「……ヒイラ」

「何でしょう──」

 彼女が自分に向ける感情と、自分が彼女に向ける感情は恐らく似て非なるものなのだろう。神ではない彼女と、神である自分。見る世界が違うのは当たり前のことだ。考えることも感じることも違うだろう。そもそも自分に従う運命を強いられている彼女にとって、自分以外のものに好意を向けるという可能性は最初からありはしない──つまり彼女が自分に向ける感情は、運命によって仕組まれた偽りのものなのかもしれない。それでも今はそんなことどうだってよかった。先程の「ありません。」を言質に、再度彼女の唇に触れる。今度はすぐ離すことはなかった。余すところなく彼女を知りたい。時折初めて耳にするような嬌声を微かに漏らし、恥じらいからか逃れようとする彼女をさらに抱きしめる。そんなことを何度か繰り返してしばらく、ふっと顔を離して彼女を見た。紅潮した頬、どこか惚けた艶やかな口元、潤んだ金の瞳。そのすべてを愛おしいと思う一方で、妖しげな感情がぞくりとこみ上げる。この程度では飽き足らない。もっともっと支配してやりたい。どこまでも蕩かしてどこまでも深い泥沼に落としてやりたい。かつての自分なら決して抱かなかったであろう欲望が揺らめいていることに自分でも驚く。この姿でいる間に人間の思考に毒されたのだろうか。朦朧とした頭で隣に座る彼女の肩をとん、と押すといとも容易く彼女は倒れた。腕を掴み、逃がさないよう組み敷くと金の瞳をまばたかせ主を見上げる。その仕草はどこかあどけなさを感じさせるが、彼女とて純真無垢で初心な子供ではない。むしろ並みの大人よりも遥かに様々なことを知っている。今から主が何をしようとしているのかくらい、とっくに察していることだろう。彼は再び口づけを落とす。そして耳元で低く囁いた。

「俺のものになってくれるか」

「私が貴方様のものではない瞬間など存在しません」

 言葉こそいつも通りだが、少しだけ声音が甘い──ように感じたのは気のせいだろうか。これから何をしてもいい、と思う自分がいる一方で今ならまだ引き返せる、やめろと叫ぶ自分もいた。息を呑み、自分にされるがままに捕らわれている彼女の姿を見てゆっくり、しかし確実にあの欲望が頭をもたげてきた。──彼女の全てが欲しいんじゃないのか。彼女の全てを知りたくないのか。知って、満たされたいと思わないのか。

 あの時は絞めた白く細い首を、今度は優しく撫でる。それだけでも彼女は僅かに肩を跳ねさせた。あの口づけが何か悪さをしたのだろうか。興奮させるような作用は自分の体液にはなかったはずだが。そんなどうでもよさそうなことを意識の片隅で考えつつ、彼はその手を首から胸元へと這わせた。

「──エリアス様」

「……どうした」

 先に目覚めたのだろう、彼女はきっちり服を着て正座をし主の目覚めを待っていたようだった。罅の走る高窓から差し込む柔らかな朝日に照らされた彼女はあれほどのことをされても巫女の名に違わぬ清らかさをまとっているように見えた。が、そんな彼女は今、何やら思いつめた顔をしている。主が応えると手をつき、深々と頭を下げた。

「このような神聖な場であのような痴態をさらし、自らを律することを忘れかけ、あまつさえ身の程を弁えず隷の分際で貴方様に傍にいてほしいなどと口走り……何とお詫び申し上げればよいのでしょうか。大変申し訳ございません。如何様にも罰してください。」

「いや、本来謝るべきは俺だ」

「何故ですか」

 顔を上げて彼女はこちらを見た。

「断れないのを見越して隷に手を出すなんて主がやるべきことじゃない。……無理を言って悪かった」

「とんでもありません。……あの、エリアス様」

「どうした?」

「……あの時の私は、私ではないと思ってください」

「何故」

 理由を尋ねると、彼女は視線を逸らして呟いた。

「隷たるもの、どのような時も冷静で落ち着いていなければなりません。感情を出すことも言葉を発することも、自分の意思で行ってはならないはずです。それなのに昨晩の私は……大変お見苦しいところを……。以後は気を付けます。すみません」

 柄にもなくぼそぼそと話して縮こまってしまった。よほど気にしているようだ。そんな彼女が愛おしくて頭を撫でてやる──ただそれだけのことなのに、明らかに彼女の反応は昨日までと違った。身を固くして俯いている。自分から与えられる刺激全てを遮断しようとしているかのように。

 考えてみればそうおかしな話ではない。彼女にとっては、主の気まぐれで突然これまで味わうことのなかった感覚を押し付けられたことになる。隷として振る舞うことに高い矜持と義務感を持つ彼女にとってその感覚に溺れる姿を主に見られることは何にも勝る苦痛なのかもしれない。それを解決するためには簡単なことだ、何も感じないようにすればよい。そういうことなのだろう。

一度つけた傷はそう簡単に消えることはない。彼女の首元から少しだけ覗く、昨夜の刻印が目に入り今更ながら自分が犯した罪を冷え冷えと突き付けられたような感覚を覚えた。建前に掲げた『彼女のことをもっと知りたい』という欲求は確かに叶えられた。が、叶えられたからといって満たされたとは限らない。一度だけでも手に入れればもうそれで終わりかと思った。現実は違った。それは底なしの泥沼への扉を踏み倒したに過ぎなかった。終わりない渇望とさらに霞む彼女という存在。この行為が間違いだったと言えばあてのない支配欲は消えるのだろうか。懺悔でもすればよいのか。一体誰に? 神に? 自分に懺悔するのか、訳が分からないな。自嘲するほかない。こんな今の自分は、彼女の目にどう映っているのだろう。

「──俺が怖いか」

「……分かりません」

 そんなことない、という否定が返ってくるかと思いきや彼女が絞り出した声音で言ったのはある意味肯定されるよりも辛いものだった。

「この気持ちをどう述べてよいのか、私には分からないのです。貴方様に触れられるのが嫌だとか、悲しいだとか、そういうわけではありません。ただ……この気持ちを認めてしまったらどうなるか分からないのです。それが、少し、怖いかもしれません」

「……そうか」

 尚も俯いたままの彼女を抱き寄せようとして、はたと気づく。安心させるため、守るためにしようとしたことが今となっては逆のことを引き起こしかねない行為となっていることに。そうしてしまったのは他でもない自分だ。伸ばしかけた手を握り思いとどまる。

 何やら彼女が言う。仕事の時間なので退がらせてくれというその申し出に許可を与え、彼女が消えると彼はたった一人寂れた宮殿に残された。

──『ずっと貴方のお傍にいたいです』『貴方の隣にいさせてください』。

 早足で朽ちかけた宮殿の回廊を歩いている間、昨夜の言葉が脳内で反芻される。自分は一体どうしてあんなことを口走ってしまったのだろうか。その言葉を聞いた後の主の顔も鮮明に思い出せる。柔らかく微笑む中に秘められた一縷の毒々しい色を彼女は見逃さなかった。それでいい、と言われているような気がした。今は紫に濁っている瞳も、あの一瞬だけは本来の金色に光ったようにも見えた。

 主はこれまで自分に様々なものをくれた。それは励ましの言葉だったり、感謝の笑みだったり、叱責の眼差しだったり。昨夜もまた、新たなものをくれた。身に余るような狂熱、とでも言おうか。はたまた快楽なのか痛みなのか。どちらにせよ、主から授かるもので嬉しくないものはない。それだって例外ではなかった。これまで見たことのない主の姿も見ることができた。優しく丁重に触れられて、さんざん感覚をぐちゃぐちゃに掻き回されて、世界の全てが主に支配されたような心地になった。それは否応なしに陶酔させられるようなもので、ずっとそれに浸っていたかった。しかし、それは許されない。自分の本分を忘れてはならない。主が求めるならば応えるが、こちらから求めてはならない。従者としての矩を踰えてはならない。

 そう分かっているのに、あの時自分は主の傍にいたいと願ってしまった。願うどころか、言ってしまった。あれはある意味で願わなくとも勝手に運命によって叶えられる願いだ。これまでもこれからも主から離れられない宿命を負っているのは分かりきっていること、つまりわざわざ口に出さなくてもいいことだった。それでも言わずにはいられなかった。ただ一緒にいるだけじゃなくて、自分のことを特別な存在として見てほしい──そんな願い。快楽という酔いに任せて出たうわごとなのだろうか。むしろ呼び覚まされてしまった欲望といった方が近い気もする。主の喜びは自分の喜び、主の悲しみは自分の悲しみ。感情という代物を備えていなかった自分にとって、世界の全ての色は主──と、今はここにいない彼女──につけてもらったものだった。そのはずなのに、いつの間に自分の手には絵筆が握られていた。自分には縁がないと思っていた。感情とは恐ろしいものだ。ひとたび知ってしまえば後戻りのできない傷を残す。認識を狂わせる。“隷“でいることを危うくする。知らない方がよかった。このような劣情を抱くこともなく、純粋に彼の従者でいられた。俺だけを見ろと低く囁き、独占欲で炯々とした金の瞳を笑みに歪ませこちらを見下ろす主の姿を知ってしまったが最後、どうして何事もなかったかのように過ごせようか。耐え難いほどの熱を与えられ、どうして平気でいられようか。

 それでも自分は隷でいなければならない。ならば、もう何も感じないように感覚を閉ざすしかない。自分の中で芽吹いた欲望も感情も、すべてなかったことにして閉じ込めてしまえ。高望みなどするものではない。この気持ちを認めればどうなるのか想像もつかないが、今度こそ後戻りのできない泥沼に落ちてしまいそうな気がする。責任を転嫁する気はさらさらないがいっそのこと愛情も何もなくただ一方的にされた方がどれほどよかったか、とそんな考えがふと過った。こんな愛される価値もない自分に優しく愛を囁き快楽を注ぐとは、主は一体何を考えているのだろう。いや、高尚な主の考えなど自分には分かるわけがない。今はただいつも通りに振る舞うように努めるだけだ。

 自分はただの隷に過ぎないのだから。

 彼女は扉の前まで来ると、片手でそれを押し開けた。

 庭園に現れた彼の姿を見るなり、彼女は口を開いた。

「お前、あやつに何かしたか?」

「……どういう意味ですか、ロガーナ様?」

「通りがかったあやつの様子が常とは異なっていたように思えてな。いくらお前の本性が粗暴な獣だろうとあやつに手酷い真似をすることはなかろう。が、あの様──随分思いつめたような面だった」

「……」

「心当たりがあるのだな」

 糾弾するわけでもなく、女神はただ呟く。対して彼は黙ったままだった。

「お前たちがどうなろうと我は首を突っ込みはせん。が──隷は大事にした方がよかろう。我が言えたことではないかもしれぬが」

「分かっています。……ロガーナ様は、隷のことを全て理解できたと思ったことはありますか」

「他者の全てを理解するなど不可能に決まっている。お前はそんなことが可能だと思っているのか」

「……。それは理解しようとすることを放棄しただけではありませんか」

「竜?」

 珍しく怪訝な表情で彼女は彼を見上げた。が、すぐに鼻で笑う。

「どれほど繕えど欲は隠せぬものよ。成程お前はそのような大義名分を掲げてあやつに何か良からぬことでもしたのか。これは更に隷を理解するための行為だと。あやつの命も心もお前の掌の上にあるくせにまだ足らぬことがあるのか」

「私、いや俺は……そこまで彼女を支配できていませんよ」

「“自らの血なくして生きられぬ者が限りない忠誠を誓っている“。これで支配できていないなどお前は一体如何程の高みを目指しているのだ」

 半ば呆れたような視線を投げかけて彼女は言う。彼は溜息をついた。

「分かりません」

「……無責任な奴め。それほど離しがたいならばいっそ閨の中にまで連れ込んでみたらどうだ。そこまでするほどお前に分別がないとは思えんがな」

「……」

「……まさかとは思うが、お前、分別のない事をしたわけではなかろうな?」

「はい」

「それはどういう意味の肯定だ」

「そのまさか、ってことですよ」

 ぶっきらぼうに目を逸らして彼は呟いた。彼女は何も言わず黙って彼を見ている。かける言葉を探している、というよりは何も言うまい、という文脈の沈黙。

「……。……この下衆竜が」

「お美しい視線とお言葉、恐悦至極に存じます」

「今のお前が斯様なことを言うと気色悪さが格段に上がるな。それはそうと──隷と共寝とは些かの意味をも持たないだろう。子を生せるわけでもあるまい。そんなことをしたところで虚しさ以上のものは得られないだろうに」

「堕落の魔女様ならば理解できるのではないでしょうか」

「下衆竜の考えが理解できてたまるか」

 心底嫌そうに口元を歪め彼女はそう吐き捨てる。続けて言った。

「くれぐれもあやつが壊れるような真似だけはするなよ」

「そんなことしません」

「どうだか」

 肩をすくめて彼女は手近な薔薇を一本手折って彼に差し出した。

「お前たちにやろう」

「……嫌味ですか?」

「抜かせ。これをそのように受け取るとは自分の行いを悔いている証だろうよ。ならば猶のこと持ってゆけ」

「……頂戴します」

 彼は手の中の純白の薔薇をじっと見つめた。

 点々と灯る明かり以外に光のない暗闇。ただコツコツと響く自分の足音だけを聞いている。照らされた回廊の柱や床に刻まれた罅が黒い線となってぼんやり浮かび上がる。朽ちかけの世界──これをどうにかするために今日もあれこれと働いてきた。今は明日に備えて休まなければならない。倒れて主に要らぬ心配はもうさせたくなかった。

ふと前方に、誰かの気配を感じて立ち止まる。それが誰かなどということは火を見るよりも明らかなことだ。

「……お疲れ」

「ありがとうございます」

 頭を下げ、立ち去ろうとしたその時に名前を呼ばれて彼女は振り返った。先程はよく見えなかったが彼はその手に何かを持っているようだ。

「女神から貰った。俺たちに、だと」

「白い薔薇ですか。……相変わらず何を考えているのか分からない人ですね」

 と、彼女はあることに気づいて小さく声を上げた。薔薇を持つその手から僅かに深紅のものが滲んでいる。

「エリアス様、手に傷が……」

「え?……あぁ、本当だ。棘が刺さったんだろ」

 特に気にする様子もなくあっさりと言う主をよそに、彼女はじっとその赤を見つめていた。すぐに我に返り、「お手当を──」と言うと主はその手をこちらに向けた。

「……要るか?」

「……」

 素直に答えるべきか否か。今はまだ以前に貰った血の効果が薄れてきているという実感はない。だが何故か、主の血を見せられればそれがこの上なく素晴らしく美しいものに映るのだ。欲しいかと問われれば頷くほかない。はい、と小さく答えると彼は手を差し出した。おずおずと彼女は手を取る。そのまま顔を近づける──かと思いきや握ったまま何かを考えているようだった。

「……やはりこのような形で貴方様の御血をいただくわけにはいきません。貴方様の傷跡に触れることはできません」

 言い訳のように付け足したが、本心は主の手を舐めるという行為に気が引けたからだった。主には昨日の今日で何を今更と思われるかもしれないが、血をいただくのは杯から──これだけはある種の儀式のようなもののままであってほしかった。

 気を悪くしただろうかと心配しながら彼女は彼を見た。そんなことはなく「そうか」と呟いて手を引っ込めようとする。彼女は慌てて主の手に髪を結んでいた布を包帯代わりに巻き付けた。やや驚いた顔で彼は隷と手を交互に見る。

「お気になさらないでください。エリアス様の手の方が大事です」

「ありがとな」

 そう言って微笑む主の表情に思わず彼女は息を呑む。周囲が暗いせいか、どこか陰のあるその表情は何とも言えない妖艶さをも感じさせた。彼も彼で髪を解いた彼女を見るとあの時の一連の出来事が思い起こされ微かに意識が揺さぶられたようだった。二人の間に横たわる空気が微妙な色を帯びる。それを振り払うように彼は首を小さく振ると彼女に近づきその髪に白薔薇を挿してやった。銀の髪に白はそこまで映えないかもしれないが、よく似合っていると思ったのは彼女に甘いところのある現れなのだろうか、とそんなことを思う。

「お前は何でも似合うな」

「あ、ありがとうございます……」

 不器用に彼女は礼を述べる。やはりいきなり触れたのがまずかったのか、動作がどこかぎこちない。目に見えない溝はどうも思っているよりも深いらしかった。

 どうすればこの溝は埋まるのだろう。他者を支配するには二通りの方法があるという──それこそが恩寵と畏怖。言い換えれば、快楽と抑圧。いずれも与えた。だが、いずれも中途半端なものだったのだろう。だからこんなことになっているのだろう。更にそれらを与えるべきか? いや、そんなものよりも今の自分たちに足りていないものは他にあることくらい分かっていた。もっとお互いに本心を話すべきなのだ。黙っていても伝わるだろうというのは幻想でしかない。たとえ永い年月を共にしていたとしても。

「なぁ……ヒイラ。聞いてもいいか」

「何でしょうか」

「お前は何を恐れているんだ。俺か、それとも俺がお前に触れることか」

「……。」

 ──閉じようとしている傷を、どうして開こうとなさるのですか。

「教えてくれ。お前をそうさせたのは俺だ。償いをさせてほしい」

「……。」

──何故、見たくなくて蓋をしたものを見ろと仰るのですか。

「俺にできることなら何だってしよう。だから──お前の本心を言ってくれないか」

──嫌だ。自覚させないで。貴方の隷でいさせて。

 黙ったままの彼女を訝しむように彼は小さく彼女の名を呼んだ。俯いているため彼女の表情は分からない。

「……すみません、……言えません」

 か細く今にも消え入りそうな声で彼女は答えた。何か主を非難するようなことを言おうとして遠慮しているのだろうか──彼はその様子をそう捉えた。だから、こう言ったのだ。

「ならば命令だ。言ってくれ。俺をいくらでも罵倒していいし非難していい。このままの状態が続くのはよくないだろう」

 命令と言われたならば、彼女に答えないという選択は許されない。眠らされかけた時のように抵抗すればよいのだろうが、そんなことを考える余裕もないほど彼女の胸中は乱れに乱れていた。

「……何故ですか。どうしてですか。……貴方は、残酷な方ですね」

 彼女の声が震えている。予想外の反応に主はただ黙って隷を見つめていた。

「──エリアス様、」

「……!」

 その華奢な体躯のどこからそんな力が出るのだろうか──押されてバランスを崩し、その場に彼は倒れた。驚いて上体を起こすと彼女がのしかかってくる。切羽詰まったようなその顔を見て更に彼は驚くも、主に気を休ませまいとしているのか彼女は早急にこう告げた。先程挿した白薔薇が勢いに乗じてするりと床に落ちる。

「こんなこと言うのは命令と言われたからです。──抱いてください」

「ヒイラ──」

「お願いします! 貴方の好きなように、好きなだけ乱暴に使ってください。私の価値などないと思わせてください……! 愛など要りません。睦言も要りません。所詮私は隷でしかないのだとこの身に刻んでください。諦めさせてください……っ! お願いします。……お願い、します……。エリアス、様……、おねがいします……」

 そこまで言うと、彼女は主の胸に顔をうずめた。主は何も言わない。彼女も何も言わない。しばらく沈黙が場に降りる。

「……ヒイラ。顔を見せてくれ」

「……」

 言われたように彼女は顔を上げた。その金の瞳には涙の粒が浮かんでいる。時折それは頬を伝って零れた。こうまで彼女を追い詰めたのは他ならぬ自分だ。どんな非難の言葉よりも鋭い痛みが彼を突き刺す。

「何も分かっていなかった俺を許してくれ。本当にすまない」

「違います、ちがいます、貴方……貴方様が謝ることではありません。私が勝手に……思い上がって、叶わないことに気づいて、勝手に傷ついただけで。何もかも悪いのは私です」

「そんなわけあるか!」

 まっすぐ彼女の目を見ながら彼は語気を強めて言う。

「元はと言えば俺がお前に手を出さなければよかった。そうすればお前を傷つけることもなかった。俺なんて浅慮な出来損ないの主人でしかない。何をどう考えたって悪いのはこっちだ」

 「それでも」と返そうとする彼女に向って黙って首を振る。一瞬言葉を詰まらせ、再び彼女は口を開いた。いくらかその口調は落ち着いてきている。

「……貴方様に丁重に扱われて、私は過ぎたことを思ってしまいました。どうしたって叶わない願いです。これ以上そんな思いを抱かぬようにと振舞おうとして、結果的に貴方様を拒むようなことをしてしまいました。……私が恐れていたのは、貴方様の優しさです」

「あぁ……そうか」

 固く閉ざされていた本音を話してくれたことが嬉しくて、思わず彼女を抱きしめる。これも彼女にとっては辛い仕打ちになるのだろう。しかし生憎この主は不器用で、そうする以外に彼女に溢れる感謝を伝える術を持ち合わせていなかった。

「きっとこれからも、お前には幾らでも辛い思いをさせてしまうかもしれない。だが俺にはお前をどうでもいい存在として扱うことはどうしてもできないんだ。許せ」

「エリアス様……。……分かっております」

 彼女はまだ静かに泣いていた。自分が彼女を支配できたと思えないように、彼女も主に満たされたと心から思える日は来ないのだろう。もとより自分たちはそういう運命の元で生まれたものなのだ。何を与えても痛みや抑圧となってしまう自分に、隷でなければならず真の自由を知らない彼女。誰が悪いわけでもなく、責めようがないというその事実がいっそう自分たちを悩ませる。痛みを互いに抱えて生きる、血の色をした運命の糸でのみ繋がれた関係。そのくせ互いなくして存在できない関係。人間のように死んでやり直すことも許されない。それができたらどれほど楽か。

「……。すみませんでした」

「何を謝ることがある」

「動転していたとはいえ、貴方様に乱暴なことをしてしまいました。すみません」

「これくらい何ともないから気にすんな」

「……そうですか」

 沈んだ口調で目を伏せる。ふと彼は落ちている薔薇を手に取った。一度は落ちてしまったが、まだ美しい白のままのそれ。さすがにもう一度挿しかえすのもどうかと思いぽつりと呟く。

「お前、白い薔薇の意味を知っているか」

「『純粋と純潔』、ですか」

「それもあるが別の意味もある。『心からの尊敬』、『相思相愛』、あとは……『あなたの色に染まる』」

「よくご存知なのですね。さすがです」

「女神の受け売り」

「それで……なぜそのようなことをお聞きになるのですか」

「何となく」

「そうですか」

 女神はどんなつもりでこれをくれたのだろうか。最初は当てつけか皮肉の類かと思ったが考えてみれば彼女がそこまで分かりやすいことをするだろうか。分からない。いつまで経っても理解できないところがあるのはもう仕方ないことなのだろう──『他者の全てを理解するなど不可能に決まっている』。

 それでも理解したくなってしまうのが性だろう。まして最愛の存在ならば、猶更。そんなことを腕の中で小さくなっている彼女を眺めて思う。理解という名の支配かもしれないが今はそうは考えたくなかった。

「あの……」

「どうした?」

 尋ねると少し気まずそうに彼女は言う。

「すみません、退いたほうがよいですよね。重ね重ね、無礼をお許しくださ──」

 言い終える前に、彼はその唇を奪う。離れたくない、離したくない。そう思ってしまった。同時に背中を指でつうとなぞってやるとびくりと肩を震わせた。

 ──浅ましい。あれほど彼女を追い詰めておいて、また同じことを繰り返すのか。

頭ではそう分かっていた。だが一方である考えが彼の中で叫んでいた。満たされないなら、何度でも与えてやればいい。いつでもどこでも求めてやればいい。そうすればきっと彼女も自分がどれほど主に愛されているか分かってくれるだろう。否、そんなわけあるか。愛なのか欲なのかどっちつかずの感情を向けられて彼女が嬉しいと思うわけがない。堂々巡りを繰り返す脳内とは裏腹に体は勝手に彼女を求めている。

「……っ……エリアスさ、ま……──」

 驚き顔ではあるが確かにその表情はいくらか甘さが差している。金の瞳に微かな期待の光が灯るのを彼は見た。

「辛いか。苦しいか。それとも──怖いか」

「……全部です。でも、」

 彼女は主の黒い指に自身の白い指を絡ませた。怪我をしているのを労わるような力ない掴み方で、それがかえってくすぐったさやもどかしさを生む。

「このままでもよいですか。安心……できるので」

「あぁ」

 頷くと、僅かに笑みをこぼす。そのまま何かを待つように主を見つめる。その仕草が愛しくて再び抱き寄せ口づけをする。愛だろうが欲だろうがもう何でもよかった。ただ今、この瞬間は彼女のすべてが愛しい。泥沼だって地獄だって彼女と共に堕ちられるならば本望だ。

 吐息が混じるほどに、触れ合う指先が融けてしまうと錯覚させるほどに、二人の距離は限りなく近い。彼ら以外は誰もいない──文字通りの二人だけの寂れた世界。彼らを繋ぐ運命の糸はまたひとつ絡み合い、戻れない世界に誘っていく。

すずもちの蔵

すずもちの蔵へようこそお越しくださいました。 すずもちが作ったあれこれを置いておいたりつらつら語ったりします。

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