リオイリ小話その2

時系列的には小話1より前? 相変わらず脳みそ空っぽにして読むといいと思います。


 朝。彼が朝食の支度をしていると、いつも通りのそのそと彼女が起きてきた足音がした。おはよう、と挨拶のために彼女の方を振り向いて、彼は思わず持っていた食器を落とした。幸い割れはしなかったがそれは彼の足に直撃する。

「痛ッてぇ!」

「……どうしたんだリオン。君は朝から愉快だな。」

 その場に蹲ってうめく彼を見ながら平然と彼女は言う。まだ眠いのかぼんやりと目をこすっている。そんな彼女から気まずそうに視線を逸らして彼は口を開いた。

「いや、その、イリスさんよ……、肩。」

「肩?」

 不思議そうに彼女はしばらく考えた後、自分の姿を見て「あぁ」と声を漏らした。連日の雨のせいで寝間着が乾かず、彼女は余った彼の服を借りていた。しかし、というよりもやはり彼女には大きかったのか寝ている間にそうなったのだろう、右肩だけずるりと落ちて肩と胸元のあたりの肌が露わになっている。事も無げにそれを直して彼女は言った。

「今日の朝ごはんは何だ?」

「トマトスープとパン。……あのさ、君には何ていうか……恥じらいとかないものなのか?」

「ハジライ?」

 首を傾げている。これはダメそうだ。ある意味分かりきっていた答えだったが。恥じらいという感情を分かっていたらもっと早く改善されているはずだ、と彼はこれまでの彼女の言動を思い出していた。

「君も女の子ならそう簡単に男に素肌を見せない方がいいと思うんだけどな。」

「それをハジライって言うのか?」

「あー……まぁ、そうだ。もし俺が今ここで君に服脱いで全裸になれって言ったら嫌だろ?」

「…………まぁ。」

「そこは即答してくれよ!?」

 思わず大声を出してしまったが彼女は分かっていないようだ。

「衣服は器を保護するものだから、できるだけ着ていたいとは思うが……君は私に害をなすようなことはしないだろう? だから別にそこまで頑なに拒否することでもないだろうと思ったまでだ。」

「……。」

 これが神の眷属と人間の感覚の違いか。彼は溜息をついた。どうにかして彼女に自覚を持ってもらいたいが、一体どうすればいいのやら。彼は今日も頭を悩ませながら食卓についた。それを見てイリスもいただきますともぐもぐとパンを食べ始める。こうして見ると彼女は小動物のようだ。特に手間をかけた料理でもないのににこにこと食べてくれる彼女を見て、つい頬が緩むのを感じた。

「そういえば今日は城に行く日なんだよな?」

「あぁ。帰りは遅くなるだろうし、夕飯は適当にあるものを食べててくれ。」

「分かった。」

 彼女は頷くと二つ目のパンに手を伸ばした。

──疲れた。

 半ば朦朧としながら彼は夜の森の中を歩いていた。今日は定期的な業務報告だけのはずが、あれやこれやと仕事を押し付けられ城下町を駆けずり回り、ようやく解放されたのはすっかり辺りが闇に包まれたころだった。心の中で言葉にするのも憚られるような悪態をつきながら我が家へ向かう。

 森の中に小さく灯る明かりを見たとき、いつもならそれだけで気分が安らぎ仕事のことなどどうでもよくなる彼だったが、今日は違った。散々上流階級のお偉方に嫌味を言われ雑務を押し付けられ、気力も体力もほとほと弱りきっていた。扉に手をかけ、開ける。

「……おかえり、リオン。」

 彼が帰ってきたことに気づいたのか、彼女は寝室から出てきて彼に近づいてくる。ちょうど湯浴みの後なのか、髪の毛が僅かに濡れていた。

「ただいま。」

「どうした、随分元気がないな。」

「……いろいろあって疲れた。」

「そうか。」

 彼女はそう短く答えて──彼に抱き着いた。

「──……!?」

 疲労で麻痺していた思考回路が一気に醒める。が、その状況を理解して再び麻痺状態に陥った。

「…………イリス?」

「君が読んでみろと言って貸してくれた本の中で、確かこういう場面があったんだ。」

 あぁ、確かに少し前に彼女の感情を学ぶ足しにはなるかと本棚から物語を数冊彼女に渡した。その中に彼女が言っている場面も確かにあった──戦地から恋人の帰りを待っていた女性が、帰宅した兵士の男性に抱き着いて労うという場面が。

 どうやらそれを普通の労いの仕草と勘違いしたらしい。男女間でそれが許されるのは普通、恋人や夫婦といった関係だけなのだが。自分たちの関係はというと、互いに好意を伝えたわけでもない、ただの利害関係から同居している関係だ。友人になろうと約束した覚えもない、限りなく赤の他人に近い関係のはず。それなのに彼女は自分に抱き着いている。その温もりや柔らかさがじわりと伝わってくること、誰かに触れるということが不慣れなようで中途半端な力加減であることがいっそう彼の心をざわつかせた。見下ろすと彼女はぎゅっと目を瞑って彼の胸に顔を埋めている。しばらく何も言わない彼を不思議に思ったのか、彼女は顔を上げた。

「……何か間違えたか?」

「……。」

 間違いと言えば間違いなのだが、その一方で訂正したくないと思う自分もいた。我ながら卑怯者だな、と彼は自嘲する。彼女のこれから先のことより、今の自分の一時の欲のために誤った知識を教えようとしているなんてどうかしている。さすがに罪悪感が勝って彼は彼女を自分から引き剥がした。そして幼子を諭すような口調で言う。

「いいか、イリス。」

「うん?」

「こういうことは恋人とか夫婦とか、あるいはすごく仲のいい友達とか、そういう関係の人同士でやることなんだよ。君の読んでた本でもこういうことをしていたのは恋人関係の二人だっただろ?」

「……あぁ、そうだったな。」

 合点がいったという顔で彼女は答える。

「だから、まぁ……間違いじゃないんだけど俺たちの場合は間違ってる、みたいな。」

「そうか。……こんなことされて嫌だったろう、悪かった。」

 しょんぼりと彼女は頭を下げる。慌てて彼は声をかけた。

「別に嫌じゃなかったし……。気にするな、イリス。」

「本当?」

「本当。」

 そう返すと彼女はどこかほっとしたような表情を浮かべた。そんな彼女を見てどうしようもなく愛しさがこみ上げてくる。

「研究に協力する以外で俺のために君が何かする必要はないからな?」

「いや、私は君に随分と世話になっているだろう? だから私にできることなら何だってしたいんだ。君になら何をしてもされても構わない。遠慮なく好きなだけ私に命令してくれ。」

 耳を疑った。いや、いつもの彼女といえばいつもの彼女なのだが。

「何ていうか、気持ちはめちゃくちゃ有難いんだけど……そういうことあんま言わない方がいいと思う。」

「何故だ?」

「誤解されかねないから……。」

「誤解?」

「だから、その、もっと自分を大事にしてくれっていう話だ。」

「心配するな。私は人間よりも丈夫だ。多少無理をしても何ともない。」

「……。」

 そうじゃない。彼は頭を抱えたくなるのをこらえて彼女を見つめた。金色の瞳はどこか自信ありげに輝いている。いつもだったら無邪気で可愛いと思うところだが、今夜の余裕のない彼にとってはそれが少しだけ煽りのようにも映った。

「──あのなぁ、」

 彼は一歩前に足を出す。普段見せない彼の剣幕に驚いたのか、彼女は同じく一歩後ずさる。何度か繰り返して彼女の背後は壁、追い詰めた彼女を逃がすまいと彼は片腕を突き出した。何をするのかと彼女は目をぱちぱちさせて彼を見上げている。

「頼むからさ、俺を試すようなこと言ったりしたりしないでくれ。」

「……“ごめんなさい”。」

 謝罪を口にする彼女だが、戸惑いの色は消えない。この子は恐らく何がいけなかったのかまだ理解していないのだろう。

「何が悪かったのか教えてくれないか。その、君を怒らせたいわけじゃないんだ。」

 そんなこと分かっている。懸命に言葉を探す彼女を見て、怒ったのは自分なのに怒られている彼女が酷く可哀そうに思えてきた。考えてみれば彼女は感情を理解したくないから理解していないわけではない。理解したくてもできなかったのだろう。だから今、こうして様々な常識や感情を学ぼうとしているのだ。その途上にいる彼女を、どうして責められよう。そうは思うものの現実問題、無自覚な煽りを続けられてはたまったものではない。内面が純真無垢な子供のような彼女でも、外見はれっきとした妙齢の女性なのだ。自分の理性がそんなに脆いとも思えない──思いたくないが彼女に魅力を一切感じていないわけでもない。ここで一度何が良くて何が駄目なのか言っておくべきだ。

「取り敢えず、不用意な露出は控えてほしい。」

「分かった。」

「あとは何でもするとか気軽に言わないこと。」

「分かった。」

「それと……触るなら手くらいにしてくれ。抱き着くとかは嫌じゃないんだけど、節度も大事だろ?」

「分かった。」

 一つ一つの言葉に頷いて返事をする彼女。こういうところを見ると本当に純粋で素直だなと思う。これでは良からぬ心根を持つ輩が彼女を騙したり裏切ったりするのは容易なことだっただろう。彼女曰く、そういった奴らには死なない程度に剣を浴びせて逃げてきたらしいが。閑話休題、せめて自分が傍にいる間だけでも彼女をそんな目に遭わせたくなかった。どうにかしてこの子を守らなければという庇護欲を掻き立てられる。思わず抱きしめたくなるが、自分がそういうことをするなと言った以上堪えるしかない。代わりに微笑むと彼女も安心したように笑った。

「……それで、リオン。いつまでこうしているつもりだ?」

「あぁ、ごめん。」

 自分と比べれば彼女は小さい。威圧感もそれなりにあっただろう。申し訳なさを感じつつ彼は彼女から離れた。

 おやすみ、と彼女は告げて再び寝室に引っ込む。そんな彼女の姿を見届けてから彼は静まった居間の椅子に腰を下ろした。目を閉じるとはっきりと先ほどの光景が思い浮かぶ。自分のすぐ近くに彼女の金の瞳があった。ほんの少し濡れた桃銀色の髪が、鼻をくすぐる微かな薔薇のような匂いがあった。あれほど近くで彼女と話したことはあっただろうか? そんなことを思うと、今更ながら自分のしたことで顔が熱くなっていくのを感じる。彼女にあれほど煽るなと言っておきながら自分もその実、何かとんでもないことをしてしまっているのではないか。そもそも、付き合ってもいない友人でもない未婚の年若い──彼女の実年齢は百歳くらいだが──男女が同じ家で寝泊まりして暮らしているということ自体、はっきり言って普通ではない。そしてそんな生活を提案したのは外ならぬ自分だ。こんな提案、彼女でなければ一蹴されていただろうに。

「……。」

 気持ちのやり場もなく彼は大きく溜息をついた。

 薄暗い寝室でイリスは毛布にくるまり、枕を抱きしめて目を閉じていた。

 瞼の裏に映るのは自分を見下ろす彼の澄んだ紫色の瞳。基本的に人間が距離を詰めるというのは何らかの強い感情を表現するときという傾向があることは知っていたが、では一体あの時の彼はどんなことを思っていたのだろうか。語気や口調が少しだけ荒かったが、あんな彼を見たのは初めてだった。あれが怒りというものなのだろう。自分の言動に訂正すべきところがあるとはっきり言ってくれたのは嬉しかった。でも確かに、嬉しいと感じたのはそれだけではなかった気もするのだ。彼とあそこまで近づいて笑みを交わしたことはなかった。その時の彼の微笑みが、どうしようもなく、記憶にこびりついている。自分はそれにどんな不格好な笑顔を返したのか。それを考えるだけで何となくいたたまれないような気分になってくる。これが“照れ”というものなのだろうか。“照れ”を感じたときにどうすればいいかなんて、御主人にもあの子にも教わっていない。どうしたらいいものか。

 気持ちのやり場もなく彼女はぎゅっと枕を抱きしめた。

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