リオイリ小話その1

時系列は結婚前?よくわからん。脳みそ空っぽにして読んでください。


 どさり、と何かが落ちる音がした。

 何があったのかと彼は椅子から立ち上がり、寝室の扉をゆっくり開ける。と、ベッドのすぐ近くの床にもこもこの桃銀色と白の塊が落ちている。

「……イリス?」

 慌てて彼はその塊──白い枕を抱えた桃銀の髪の少女の名を呼ぶ。だが彼女は目を覚ましたわけでもなく眠ったままだ。どうやら寝返りを打った際にベッドから落ちてしまったらしい。幸いなことに枕が緩衝材となったせいか痛そうにしている様子はない。少しだけ眉をひそめているようにも見えたが、起きないあたり怪我はなさそうだ。彼は安堵の溜息を漏らして、彼女をベッドの上に戻そうとその背と脚に手を回して持ち上げる。驚くほど彼女は軽かった。人間ではないとは言っていたが、女神の作り出した人形か何かのように思えてくる。よくこんな華奢な体と細い手足で戦い続けているものだと感心しながらそっとその体をベッドに横たえる。さて、計画書の執筆の続きを──と彼がその場から離れようとした時、彼の手は弱弱しく誰かに掴まれた。そんなことをするのはこの場に一人しかいない。彼女だ。振り返るとぼんやりした金色の瞳が彼を見上げている。

「どうした? 水でも飲むか?」

 彼がそう尋ねると、分かっているのか分かっていないのかという様子で彼女はゆるゆると首を横に振った。そのままじっと彼を見つめている。なんとなく照れ臭くなって先に視線を逸らしたのは彼の方だった。

「……嫌な、夢だ。」

 ぽつりと彼女が呟いた。

「……君がいたから、声をかけた。君は何も言わないで私の手を引いて、どこかに連れて行った。気づいたら君は溶けていて、私の手に君が溶けた液体だけが残っていた。怖くなって、逃げて、目が覚めた。」

「……何だその夢。」

 まるでおかしい話だ、と彼はくすりと微笑む。そんな彼に彼女は少し恨めし気な目線を送る。

「怖かったんだからな。」

「へぇ、君にも怖いものがあるんだな。」

「考えてみろ。私が今この場で溶けてどろどろになったら怖いだろう。」

「それはそう。」

「……まぁ、そんな夢を見た、ってだけだ。引き留めて悪かった。」

 とは言いつつも、彼女はまだ彼の手を掴んでいる。その手が僅かに震えていることに彼は気づいた。

「……そんな顔するなって。」

 ベッドの縁に腰掛け、彼女の髪をゆっくりと撫でる。気持ちよさそうに彼女は微笑みを浮かべた。だがまだどこかぎこちない。

「さっき君は、私に怖いものがあるということに驚いていたな。」

「あぁ。だってあんな強い君ならどんなものだって追っ払えるだろうに。」

「そんなことない。君が思っているほど、私は万能ではないよ。この体もあちこち傷だらけだ。背中とか見るか?」

「いや大丈夫だから……。」

 慌てて手を振って、起き上がって寝間着の裾をたくし上げようとする彼女を静止する。いつものことながらいくら何でも無防備すぎる。彼女は毛ほども気にした様子を見せず「分かった」と小さく言って続けた。

「現れるものなら怖くない。なくなることが怖いんだ。」

「なくなる?」

「君がいなくなってしまうとか。」

 どこか遠くを見るような目で彼女は言った。同時に、ほんの少しその手を握る力が強くなる。

「心配性だな、イリスは。」

「だって君は脆いだろう。」

「さすがに急に溶けたりはしないよ。安心してくれ。」

「……。」

 笑いながら彼は頭を撫でる。それでも彼女はどこか疑うような眼差しを向けていた。やがてその視線を逸らして口を開く。

「……君は私がいなくなったらどう思う?」

「めっちゃ悲しい。」

「それで何をする?」

「全力で探す。」

「見つからなかったら?」

「見つかるまで探せばいいさ。」

「……そうか。」

 金の瞳は相変わらず遠くを見ている。一体どんな景色を彼女が見ているのか、彼には分らなかった。いや、彼女のことで分かったことなどあるだろうか。そこまで考えてそういえば彼女とは自分と同じ人間であるという大前提から違っていたことを思い出す。自分たちの間に横たわる、あまりに大きな溝。お互い見ないふりをして、なかったことにされている壁。きっと彼女を完全に理解するには時間はあまりにも足りないのだろう。そんなことを思って彼は少しだけ寂しくなった。思わずその小さな体をぎゅうと抱きしめると、彼女は驚いたように身じろぎをした。「リオン?」と戸惑うようなくぐもった声が胸元で響く。

 しばらくそうしていると、彼女の体温が少しずつ彼にも伝わってきた。その鼓動だけが静かな森の静かな部屋の中で鳴っている。こうしていると何故か安心できた。きっと彼女も生きている人間で、自分と何も変わらない存在だ──そう思えるからなのだろう、と彼はぼんやり考えていた。ただの現実逃避と言えばそれまでかもしれない。だが、こうする他にどうやって自分たちの溝を埋めろというのか。運命を交差させろというのか。限りなく距離を近づけたところで何も変わらないという事実もまたいっそう強調される気がして、思わず抱きしめる手に力がこもっていく。そのままでいると何かを訴えるように彼女が背を叩いてきた。

「くるしい……。」

「……悪い!」

 すぐに解放すると彼女は深呼吸を一つして再びベッドに横たわり、へにゃりとした微笑みを彼に向けた。相変わらず笑うことに不慣れのようだ。それでもそんな不器用な彼女がこの上なく愛おしい。彼も笑みを返すと、安心したように彼女はおずおずとその手を離した。

「随分と子供っぽいところを見せてしまって申し訳ない。」

「謝るなって。君のことをもっと知れた気がするし、むしろありがとうって言いたいくらいだ。」

「……やはり君は数寄者だな。」

「どうとでも言ってくれ。」

 彼は笑いながら彼女の毛布をかけ直して「おやすみ、イリス。」と告げた。

「おやすみ、リオン。」

 すでに眠たげな声が返ってくる。程なくしてまた穏やかな寝息が聞こえてきた。それを僅かに開けた扉越しに確認してから彼は机に戻った。

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